黄葉だより2017       菅茶山に関連した地域の情報・寄稿を掲載いたします。
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 菅茶山 城を辞す
  
市東部市民大学祭で朗読劇 

12月2日、市東部市民大学祭で朗読劇「菅茶山 城を辞す」(藤井登美子作・演出、備後人物歴史講座受講生出演)が催された。

藤井登美子先生がプロローグ。「備後三大人物と言えば、水野勝成、阿部正弘、菅茶山。勝成、正弘は名君の聞こえ高い大名だが、茶山は農民。それでいて、江戸文政期、日本列島縦断、北から南にかけて名を轟かせ草の根の偉人。
あの賴山陽を育て、
伊能忠敬や松平定信とも交流があり、「義倉」設立に貢献した人。郷土に私塾を開設。貧しい者には塾の仕事を手伝わせ学費を取らずに学修させるなど、村人に尊敬の的であった。」
 

愈々本題へ。天明三年、浅間山噴火、天明六年、日本全国、江戸時代最大の飢饉が襲う。福山藩も例外でなかった。 にも拘わらず、藩は飢えた狼のように収奪を繰り返す。
百姓一揆を恐れた藩は人民掌握のため藩校設立。


ある日、茶山は藩儒として城に召出される。庶民が藩儒とは望外の名誉と出世。めでたい反面、庶民にとって無くてはならい賢い味方を失うことになる。出発の朝、近隣の人々は複雑な思いで先生を見送った。
  
  辟赴福山夜還艸堂途中口占二首 菅茶山
 
朝に城府(福山)に入りて
 一日青山と別れる
 夕べに城府を辞すれば 
 青山我の帰るを待つ
 朗読劇
 
夕方、人々は高屋川の土手で茶山先生の姿を発見。村中、大喜びで先生を出迎えた。
やはり儂等の茶山先生、宮仕えを捨て、常に儂等とともに生きる道を選んでくださった
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「大東古墳群」調査発表
    
冊子と歴史講座 
 
「御領の古代ロマンを蘇られる会」(端本てる子代表)は、2月から3月にかけての測量調査の結果、
大仙神社(上御領)が古墳時代前半期の前方後円墳「大東古墳群」(仮称)の後円墳に鎮座していることを確認しました。

12月10日、その調査結果を冊子32㌻「大東古墳群~古墳時代の夜明け~」に総括して、公表しました。
16日には、御野公民館で、佐藤武志副代表による報告会が開かれました。

 会の名称そのままに、「御領三絶」に新に確認された「古代ロマン」ともども、夢街道ルネサンスの一翼
を担う地域の宝物として、地域の人による地域の活性化に繋げていただきたい。

 
 
 賴山陽史跡史料館と安芸の宮島へ

菅茶山顕彰会仲間 茶山の足跡を訪ねて 
 
  
11月10日、本顕彰会が年に一度の日帰り旅行、広島平和記念資料館と茶山の「遊芸日記」の旅を辿る
「賴山陽史跡史料館と安芸の宮島」への旅行を催行した。

快晴、鵜野会長以下、29名の参加者が1万歩超のさわやかウオーキングを含むあきの終日を楽しんだ。
往路の車中では、鵜野会長が「菅茶山と賴山陽の交遊 略年表」を配布し、今回の旅程とほぼ同じ「遊芸日記」の旅 を解説、茶山41歳が山陽9歳と初対面に始まり茶山他界まで約40年雨の日もあった交流を振り返った。

9時、広島平和記念資料館へ。本館は改修工事中、東館で一発の原子爆弾で約14万人の命を奪った許しがたい歴史を辿り心から平和を祈念。

その後、賴山陽史跡史料館を、花本哲史主任学芸員の案内で見学した。ここは賴春水の藩邸があった場所で、息子の山陽21歳が脱藩の罪で五年間、幽閉・謹慎生活を送った座敷牢「仁室」も復元されている。

菅茶山と頼山陽との縁は、歴史でいえば1789年フランス革命(出会い)から1832年ペリー来航(山陽死去)までの約50年におよび、茶山は山陽とは性格的には水と油だったが、山陽の文才については高く評価していた。

この分館には、廉塾出奔については、茶山が「山陽の意を酌んで、許可した」ことが判る手紙や、
茶山が山陽に、奴の小萬こと「阿雪傳」の執筆依頼文など百五十通の茶山の書簡が所蔵されている と。

次いで、企画展「賴山陽と酒 ~一杯一杯復一杯~」へ。山陽が、
①屡々京都から賴家時祭・忌祭年中行事のお供えに不可欠な酒を送っていたこと
②酒は嗜む程度で下戸だったが、九州旅行中、赤関(下関)で辛口の酒の味を覚えてから、「一日も酒を飲まない日はなく、飲んで酔わない日はなかった。
伊丹の剣菱を愛していた。多くの酒にまつわる詩中、「剣菱」を「剣稜」と間違えて書いている「戯作攝洲歌」
(文政七年冬)に我知らず微笑した。

広島高速道を走って最後の見学地、国特別史跡宮島厳島神社へ。
同格の「廉塾並びに菅茶山居宅」とは天と地の差の賑わい。満潮時の大鳥居を背景に記念撮影後、珍しく結婚式挙行中の神社本殿参拝した。
大願寺の九本の枝幹から成る巨松、アップダウンの多い丘陵地に建つ五重塔を見学した。

大方の人が名物「あなご弁当」を手土産に、道中つつがなく帰着。
陽はとっぷり暮れていたが、参加者一同、心はまかっかの終日であった。

 
 
 歴史講演会 「菅茶山と松平定信」

茶山は浴恩園において 白河老公から手折の梅を賜わる 

 11月18日 神辺公民館において、神辺学区「歴史文化を活かしたまちづくり」行事の一つとして、講演会が開催された。講師は広島県立歴史博物館主任学芸員 岡野 将士氏でした。
 講演の要旨
  
 松平定信は徳川吉宗の孫、安永三年白河藩第二代藩主松平貞邦の養子になり、天明三年、白河藩主、天明七年、老中に就任、寛政の改革を行った。
寛政五年、老中、解任。文化九年、定永に家督を譲った。
以後、楽翁と号して江戸浴恩園で文雅に勤しむ。

 定信はのち明治政府による顕彰で同時代の田沼意次と比較対照、儒教的倫理を説き、文武両道を勧めた名君とされている。

 定信と茶山の接点は古文化財録「集古十種」編集事業にある。
「からうた」や「ふみ」などで言外の余情を汲み取ることが肝要だが、言語や文字の補完資料として、古文書、画図、古図、古額が必要との認識から、この国家的事業に着手、著名な調査・編集要員を全国各地に派遣した。

寛政八年、神辺宿茶山を訪ねたのは白河藩儒廣瀬蒙齋。「有方録」に「仕官を望まず村里に隠遁。居宅は坊の南に、別荘は坊の北、「黄葉夕陽村舎」と呼んでいる。関西では盛んにその詩を称賛。翁は別け隔てをせず交友の広いことを楽しみにしている。
それ故四方の文士が集い、別荘に泊め、色々と談論する。」と記録、同時に楽翁へも悉に報告したものと思われる。

寛永十二年4月には、白河藩画師白雲・大野文泉が茶山を訪ね、宮島や府中へ調査に出かけている。
この時、「西国名所図」として描かれた帝釈峡の雄橋や松平定信書「文武忠孝」など5点が茶山に贈られている。

 定信は造園が趣味で、生涯五つの庭園を造っている。茶山ゆかりの庭園は南湖と恩浴園である。
前者は享和元年、白河城下に造られた日本最初の公園、別称「士民共楽」(身分に関係なく誰もが楽しめる壁や塀のない公園)、四季の草花が植栽される博物学的な面と海防、操船訓練の場としての目的も含まれていたと思われる。
文化五年、茶山は園内17の景勝地の一つ逗月浦(月待つ浦)に、漢詩を寄せるよう命じられている。
 後者、浴恩園は寛政五年、築地の一橋家跡に着工、翌年ほぼ完成した。回遊式庭園で茶山は園内51勝中、魁春園(春知る里)の詩文を乞われていた。

 茶山は藩主正精の命で文化十二年の元旦を江戸で迎えた。程なく帰国を控えた2月5日、白河老公に召され浴恩園に赴いた。
諸臣の案内で「春風の池」から「秋風の池」を巡り、客殿「春風館」で老公と対面した。


 侍浴恩園
 雪後江城風剪剪 
雪後江城 風剪剪
 蘆芽未茁梅猶晩 
蘆芽未だ茁かず 梅 猶晩し
 頼因侍史詠歌佳 
頼いに侍史詠歌の佳きに因って
 早已名園春不淺 
早や已に名園 春淺からず

老公は茶山の詩に応えて

 故郷を 思ふも しばしなぐさめよ
  梅の色香は よしあさくとも


と和歌を詠み、一枝の梅を手折りて、茶山に贈った。
この梅は大事に福山藩邸に持ち帰り、盆栽に接ぎ木した。茶山は帰国途上、傷つくことを慮ってこの盆梅を友人の石田悟堂(秋田藩儒)に預けた。

3年後の文政元年、茶山が「大和行日記」の旅行中、小野梅舎が帰郷途上、件の梅を悟堂の書を添え茶山に届け、「2、3日うちに、故国倉敷へ帰るついでに、神辺まで持ち帰ってあげます」と親切に言ってくれた。
しかし、茶山は一面識もない梅舎に江戸から京都までの道中に加え、さらに神辺までとは厚かまし過ぎると思い鄭重に労を労い、宿屋の居室に置いた。(以下、省略 文責編集子)

 
 
 
 特別展「菅茶山没後190年教育・文化の礎」見学記

菅茶山記念館において 10月12日から11月19日まで
 

10月31日、記念館で公財福山市かんなべ文化財団主催の特別展「菅茶山没後一九〇年教育・文化の礎」を見学した。

藩校弘道館関係では創設者阿部正倫自らが描きに納めた「孔子画像」や教育目標「白鹿洞書院掲示」

廉塾関係では廉塾図四種類
  ①蠣﨑波響画・岡本花亭賛 文政四年)
  ②古図(作者不明 文政頃)
  ③星野文良画(黄葉夕陽文庫収蔵)
  ④「菅茶山とその弟子たち」(「神辺の歴史と文化」第四号 神辺郷土史会 掲載)を紹介。

茶山に繋がる文人として
  江木鰐水(山陽の弟子)、
  古賀侗庵(精里の三男・阪谷朗廬・江木鰐水の師)
  阪谷朗廬(窪田次郎・坂田警軒の師)
  茶山詩研究家大御所、
  重政黄山―集大成「茶山五百首」著者島田真二、
  北川勇トリオ、

葛原しげるの「大和行日記」筆写原稿、井伏鱒二遺愛の茶山書「蝶七首」など、

江戸時代から脈々として現代に繋がる特選の展示が訪れる人々の心を揺さぶることだろう。

                          上   泰二

 

 
菅茶山没後190年記念行事 

特別展・歴史文化フォーラムなど

 
  10月12日から11月19日まで、菅茶山記念館で第25回特別展「菅茶山没後190年教育・文化の礎」があり、江戸時代後期、日本を代表する漢詩人、神辺で「若者の修学に尽力した教育者」菅茶山の功績と茶山没後、郷土の誇りとして茶山に思いを馳せた人々にまつわる資料を紹介しています。

14日、神辺文化会館で、午前の部、詩吟「菅茶山を詠む」が開催され、詩吟朗詠錦城会師範綿谷城魄さんがppを駆使、吟行会で訪ねた漢詩ゆかりの舞台や懐かしのメロディなどバラエティに富んだ詩の解説後、会員の鵜野会長、武田事務局長、島田時市理事などが茶山詩「冬夜読書」「生田宿」を披露、満員の聴衆を魅せた。

 
  午後の部、「かんなべ歴史文化フォーラム」では、
市立東小学校4年生8名・市立神辺中学校1年生3名が登壇。「郷土の歴史に学ぶ~大好き!福山~ふるさと学習~」発表。  

「菅茶山と廉塾」市立東小学校

医者・詩人・朱子学者・廉塾主、(社会事業家)茶山には名前が雅号を含め6つもあった。
お酒が好きだったが、度を過ごすことはなく、80歳まで長生きした。書は手慣れていたが、絵は得意でなかった。(「遊芸日記」参照)。
今日の大学に相当する廉塾生の入門については、藩校のように身分などの条件をつけず、貧しい者からは月謝は取らず、塾の仕事を手伝わせた。

塾の教育方針は講堂東側濡れ縁に置かれた「方円の手水鉢」。人は環境、教育、友人など置かれた場所によって良くも悪くもなる と教育の大切さを説いた。
 茶山没後、昭和28年(1953年)「菅茶山旧宅および廉塾」は国特別史跡に、平成26年(2014年)「茶山関係資料」は国重要文化財に指定された。

 児童はこれら茶山に学んだことを一人ひとり「廉塾新聞」「茶山新聞」などにまとめ、誇るべきふるさと福山の宝として広く学内外に伝えようとしている。こうした次世代の活動に大いなる夢を繋ぎたい。
 
 
 
「福山藩の砂留」~先人の思い、地域の方の思いに気づき、考え、これから行動するために~
 市立神辺中学校


「総合的な学習~自然災害~」で、堂々川砂留群」「深水川砂留」について学習した。
延宝元年(1673)、神辺では、東中条東山に源を発する堂々川(4㌔)が氾濫、大原池が決壊、下流の国分寺が流失、63名の犠牲者が出た。
こうした住民の生命・財産を脅かす自然災害、特に洪水による土砂災害防止と水源保護のため、18世紀に入って砂留の築造が始まり明治時代まで増築・修復工事が続けられ、現在も現役である。
現在、確認されている堂々川砂留群11基、うち8基が平成18年、登録有形文化財に登録された。その陰に「堂々川ホタル同好会」 (土肥徳之代表)の永年のわたる環境保全の取り組みがある。

 本校では、そうした先人の過去・未来への思いを量り、アクション・プランとして、ハザード・マップを製作、次世代へ伝えて行くことを決めた。

次いで、作家見延典子先生が茶山生誕260年前年祭特別講演に続いて十年振りに再来演。「菅茶山と幕末明治の福山」と題した講演があった。自著「賴山陽」に網羅した菅波家と賴家の家族ぐるみの交流から、方程式「福山藩+広島藩=広島県」。幕末明治―阿部正方、関藤藤蔭、窪田次郎に繋がる謂わば負け組福山の歴史を辿った。

最後は野村友規市教委文化財課主事「菅茶山ゆかりの憩亭(辻堂)と福山市歴史文化基本構想」の調査発表。備後に多い憩亭のような未指定の文化財を地域に近づけ、地域活動の活性化醸成の機運を盛り上げたい と。 

15日(日)、生憎、終日雨、装い新にした第17回神辺宿・歴史まつり
三日市・七日市通りでは、茶山ポエム格子戸展・町屋見学。
本陣前では軽トラ市・トランペット&ピアノコンサート。お馴染みの本陣
「歴史講座」が姿を消したのはショック。

廉塾では雨を押して訪れた人たちが、前庭に設えられた廉塾秋の収穫祭、うずみ御膳、ふれ愛おでんなど、町内会の永い伝統を凝縮したおふくろの味に舌鼓。二胡&ギターコンサートを楽しんでいた。

                                           
 
                                                                
 廉塾並びに菅茶山旧宅を日本遺産に

福山市が追加申請模索中 
 
 9月29日付「中国新聞」は、市教委が「廉塾並びに菅茶山旧宅」の「日本遺産」申請を模索中と報道した。

2015年、文化庁は「近世日本教育遺産群~学ぶ心・礼節の本源~」として、備前・閑谷学校、水戸・弘道館、足利・足利学校、
日田・咸宜園を「日本遺産」認定したが、廉塾はこの申請に必須の条件がクリアーできなかったため乗り遅れた経緯があります。

 これを受けて、菅茶山顕彰会では「庶民教育に尽くした茶山の功績を国際的に発信し、廉塾という地域の宝を大切に活用しながら、一層の地域創生を目指すことがたいせつで、申請を担う市教委などとの協力関係を一層緊密にしたい。」と考えます。

因みに、尾道市は「日本遺産」申請に当たり、「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭都市」と題したストーリーでアピールし、認定を受けています。

 


 
 葛原しげる次男守らの遺作演奏

東京芸大戦没学生鎮魂コンサ―ト
 
 
 7月30日、葛原しげるの次男守の母校、東京芸術大学で「戦没学生のメッセージ~戦時下の東京音楽学校・東京美術学校~」コンサートが開かれ、守の歌曲「犬と雲」「かなしひものよ」など戦場に散った卒業生の遺作が披露された。
しげるの妹安子さんや孫の葛原眞さんら招待された多くの遺族が故人への想いを新にした。

葛原守は、しげる作詞校歌の作曲を多く手がけた中田喜直の親友。
戦時体制下、敗戦色濃い昭和18年、本科器学部を繰上げ卒業、学徒動員令で翌年3月、応召。
後、フィリピンで罹病、昭和20年4月12日、台北で戦病死。享年24歳。

公報を疎開先して間もない八尋で受け取ったしげるは、『親友丸山鶴吉からの懇請もだし難い上に、長男(丘 昭和17年、珊瑚海海戦で戦死 享年25歳)・次男戦没後の決意新たに、遺族協力、郷土の子女教育に挺身するため、昭和21年、至誠女子高等学校初代校長に就任した』 と同校「創立25周年記念誌」に回顧している。
当時、同校の理事長は、鶴吉の姪 出原冨子(夫 靖太 昭和20年フィリピンで戦病死)であった。

 
 
炎暑下、茶山学習会満員御礼

藤井登美子先生 玉蘊の恋を語る

 7月15日、本顕彰会主催の定例学習会(延近隆弘座長)が開催された。
藤井登美子先生の講演とあって、昼下がりの炎暑にも拘わらず会場は満席。

 先ずは熱中症対策にしっかり喉を潤してから、2019年茶山生誕二七〇年祭に向け5月から朗読劇「茶山の生涯」の脚本執筆とNHKなど三会場での連続「茶山講座」で多忙な近況を語り、いざ、「茶山―山陽與玉蘊の恋」の物語へ。

(以下は講演要旨  文責編集子・詳悉はHP掲載) 
(図は玉蘊画「國色天香図」 菅茶山賛 尾道市立美術館ホームページより転載)

 ・菅茶山 
 19歳で京都遊学。6回遊学。西山拙齋、賴春水、柴野栗山らと朱子学を学び、「天下は一人の天下に非ず、万民の天下である」理想の国家像を追求、その実現に邁進した。

最後の留学を終え、京坂に留まりたい希望も無きにしも非ずであったろうが、最終的に帰郷の道を選んだ。故郷神辺の豊かな自然と同時に、一揆で荒廃、「呑み、打つ、買う」に明け暮れる宿場町の悪風俗を一掃するため「学種」を蒔くことを思い立ち、「黄葉夕日村舎」を開いた。

 天明6年、飢饉の真つ只中、第四代藩主正倫から藩校「弘道館」へ招聘されたが、病弱を理由に遜辞した。若くして茶山をよく知り、茶山の書を愛蔵していたといわれる第五代藩主正精には心を開いた。
命を受け、二度、江戸出府。「地誌」(「福山史料」)作成、祖霊社(現在の護国神社)の造成をを命ぜられるなど、異例の高遇を受けた。しかし、茶山は藩と一定の距離を保った。

 私塾「黄葉夕陽村舎」を郷校「廉塾」への願出は教育の永続化を目的としたもので、施設や付属の田畑こそ藩に寄附したが、その運営については独自性を保った。茶山が命名した救恤制度「義倉」についても同工異曲である。

 要約すれば、茶山はあの封建制度下、①民主主義②大衆教育③社会福祉事業の必要性を認識し、しかもそれを実践した先駆者と言える。

 ・山陽
 父、春水は江戸単身赴任が多かったこともあって生涯の親友茶山の厳しいけれど要所を弁えた教育には及ばなかったように思える。
 常日頃、上方志向を抱いていた山陽は寛政12年、叔父伝五郎の葬儀に父の名代として竹原へ赴く途中、脱藩。辛うじて死罪は免れたが、5年間、座敷牢に幽閉生活。廃嫡、父の弟春風の子景譲が養嗣子になった。加えて、妻淳子は離縁、子(号聿庵)は春水夫婦の子として養育されることになった。
 文化2年、自由の身になった山陽は景譲と遊蕩三昧の生活を繰り返した。

春水から相談を受けた茶山は、廉塾都講として山陽を預かることになり、文化6年末、山陽が再出発を期して神辺にやって来た。
内心、文化4年、竹原での三兄弟の集いで巡り会い相思相愛の仲になった美人画家玉蘊との逢瀬を計算に入れていたかも知れない。
 
 茶山に面と向かっては言えず、文書で「凡そ古より学者の業を成し申す地は三との外無く候。如何なる達人にても、田舎芸は用に立ち申さず候・・・」と心情を吐露したが、福山藩への出仕、結婚、それに家老の招宴での無礼なあしらいなどが唐突な出奔への引き金であったと考えられている。

 京都では新参者というより寧ろ脱藩者として想定外の非難の嵐に、山陽は茶山に泣き付く。最終的には思慮深い茶山の判断が山陽、春水、賴一家の窮境を救い、やがて名著「日本外史」の誕生となる。

・玉蘊
 尾道の豪商、木綿問屋福岡屋の娘として産まれ、父の師福原五岳に画を、賴春風に学問を学んでいた。不運にも20歳の時、父を喪い、一家倒産の憂き目に遭い、絵筆で母と妹を養うことになった。

 山陽からの誘いで京都で芸術家夫婦としての生活を夢見て母妹を伴い上洛した玉蘊であったが、嵐の最中の山陽に叛かれ、やむなく尾道に戻って来た。
「男に振られて、のこのこと戻ってきたふしだらな女」との風評に外出もままならなかった玉蘊であったが、事情に詳しい茶山、賴一家、地元の豪商橋本吉兵衛などの惜しみない強力な庇護を礎に、近世史上に名を残す女流画家として成長して行く。

女は三界に家なし。女性の地位が最低と見なされた時代、富裕層の閨秀作家がその弊風を見事に覆した時代の先駆者の一人でもあった。

   リンク 筆のしずく「平田玉蘊」
                                                       
 
   葛原しげるーニコピン先生が伝えたもの
   
茶山記念館2017企画展&講演
  6月22日から7月23日まで菅茶山記念館で葛原しげる企画展が開かれ、自他ともニコピン先生を標榜した
作詩家・教育者葛原しげるの活動と親交に関わる資料70点が公開された。

全国各地で親しまれている「夕日」の童謡歌碑原稿(中村孝也書)や童謡集、少年雑誌出版社での編集業務、
郷里八尋に疎開、至誠女子高等学校長時代を彩る多士済々の人物交流に基づく地域社会との相互教育力の
援用、祖父「葛原勾当日記」、父二郎の希いに応えた。

冊子「梅のうた」(鈴鹿秀磨作)、清水良雄画伯の油彩「風景」などを間近にして,来館者グループがそれぞれの
自分史を重ねて語り合いながら見入っていた。

 7月1日午後、記念講演「葛原しげると宮城道雄」(講師 児童文学作家 皿海達哉先生)があった。
プロならではの目線での切り口、配付資料レジュメ24㌻+参考資料33㌻)、一時間ではとてもカバーできない
内容だった。満席の聴衆の中に、熱心に耳を傾ける末孫の葛原眞さんの姿もあった。

講演・配付資料要旨 リンク
          ポスターからコピー
     
  
  全国ネットの砂留研究会発足
   
更なる調査と保存活動へ
   
  5月26日、福山市民参画センターで「砂留研究会」(土肥徳之会長)が初会合を開いた。

 昨秋神辺文化会館で大成功を収めた「全国砂留シンポ」の承継事業、神辺町有志や全国の学識経験者など8名の発起人に県市から関係部署の職員が出席。当面、堂々川砂留群や神辺の砂留を対象に、相互連携、更なる調査・保存活動に取り組むことを決めた。

 治山治水や防災対策を含め昨春設立した「芦田川を愛するボランティア団『あしだ塾』」(丸山高司塾長)との協働活動も期待される。
 
 情報紙安心安全を守る砂留4号.pdf へのリンク
 
   竹田ホタル乱舞の郷
   
石の上にも三年目の鑑賞会
   
  5月27日宵、竹尋学区の狭間川流域でゲンジホタル鑑賞会(主催 同守る会 吉岡正文会長)が開かれました。20人余の人々が集まり、宵闇をバックに繰り広げられる光の乱舞に歓声を上げました。

年々、家庭排水や農薬など環境汚染が進捗する中、先ずは竹田ゲンジホタル(1958年県天然記念物指定)を
絶滅の危機から「守る」と共にみどり豊かな地球を次世代へ伝えようと地元有志が立ち上がりました。
先輩格の堂々川ホタル同好会(2004年発足)を範に、河川の整備、「カワニナ」の放流など環境整備を進め、3年目の鑑賞会となりました。

菅茶山らが愛し、数多の漢詩に遺した竹田ホタル。その夜景復活に務めています。

 
 螢 七首 (一)     菅 茶山

満渓螢火乱黄昏   満渓の螢火 黄昏に乱る
透竹穿藤各競光   竹を透して藤を穿ち各々光を競ふ
吟歩不愁還入夜   吟歩 愁へずた還た夜に入るを
借将余照渡山梁   余照を借り将って山梁を渡る 
 
  
 御領の古代ロマンを蘇らせる会
   
第3回福山ブランド認定
 福山市HPに
掲載の写真
 
5月11日、第3回福山ブランド認定証・登録証授与式が行われ、産品・サービス部門5件、素材・技術部門1件、登録活動部門3件、計9件が認定・登録された。

登録活動部門3件のうち、神辺から「御領の古代ロマンを蘇らせる会(端本てるこ会長)」が、第1回「廉塾ふれ愛ボランティア絆の会」、第2回「堂々川 ホタルと花と砂留と」に続いて登録された。

地元有志などによる永年の献身的な奉仕活動が地方創生の原動力として大いに期待される。
御領三絶の一つ、大東 大仙坊古墳と命名された古墳群一帯の見学道路整備や情宣活動。家族ぐるみの野外活動、講演会なども企画されている。

6月3日(土)には早速「現地説明会」が催行される。
 
 御領の古代ロマンを蘇らせる会
 
 『御野郷土史年表』 発刊
  
 菅茶山の足跡 瞥見 
 
 このほど砂留研究会(代表土肥徳之氏)は、『御野郷土史年表』を作成し「地域の宝に気づくきっかけになれば・・・」との希いを籠めて御野学区内全戸約1600戸に配布された。

この年表と『御野村郷土史 稿本』(昭和三年 土肥 政長著 )から、年代を追って茶山関係事項を整理した。

・後桃園天皇 安永五 丙申(ひのえさる) 1776
 宮原直倁著「備陽六郡志」46巻 成る。
 うち稿本44巻が末裔から財団法人義倉に寄贈され、市重要文化財に指定されている。
 後に、編纂された馬屋原重帯の「西備名区」や茶山の「福山志料」の草分けと言われている。

・安永八 己亥(つちのとい) 1779
 茶山32歳、八丈岩に登り、歌を詠む。
   国道313号線バス停「八丈岩入口」からの登山口に、地元の人たちによって詩碑(原文)が建てられている。

 武村 充大氏の現代口語訳詩を紹介しておきたい。

                                        
 
  御領山大石歌

御領の山の いただきに

どっかりすわる 石の群れ

大きな石は 山のよう

小さな石は 家のよう

 

わたしは 度々 この山へ

うさを晴らしに やってくる

きょうも酒でも 飲みながら

気ままに歌でも うたおうか

 

ちかごろ世の中 のんべんだらり

どっちへ向こうが 知らぬ顔

石よお前は この山に

かくれているのが お似合いだ

 

石の話も いろいろあるが

今ではどうでも よいことだ

立身出世も 望まない

 

御領の山は 石たちが

しずかにすわる いい場所だ

わたしはお前に あこがれる

わたしも石に なりたいよ

御領山大石歌 原詩

 
御領山頭大石多 
 或群或畳闘嵯峨 
 大者如山小屋宇 
 遥如萬牛牧平坡


 

 
吾嫌世上多猜忌 
 楽子無知屡来過 
 此日一杯発幽興
 吾且放歌子妄聴

 

 
如今朝野尚因循
 苟有所為觸渠嗔
 憐子剛膓誰采録
 不如聾黙全其身

 


 
石兮石兮林栖野処得其所





 
韜晦慎勿近羃塵
 逢仙化羊己多事
 参僧聴経非子真
 况作建平争界吏

 况為下邳授書人
 
  (リンク)
 詳しく知りたい方は     
筆のしずく 御領山大石歌 
 
 神辺本陣(県重文・史跡)の格上げへ
  
2,3年後、国文化財指定を目指す
  4月18日付「中国新聞」によれば、神辺本陣(県重文・史跡 指定)が市教委の調査を経て2,3年後の国指定を目指すとのこと。国特別史跡「廉塾並びに菅茶山旧宅」とのコラボで地域創生へ向けてのインパクトな起爆剤として夢が膨らむ。

 神辺本陣ご案内       1969年 広島県重要文化財指定 
      
 神辺本陣の成立は寛永年間(一六六〇年代)、寛永十二年の「武家諸法度」に諸国大名の参勤交代を明文化したことから、その往復道中での宿泊施設として利用したのが本陣である。
 神辺本陣は備中高屋宿と備後今津宿の中間に位置し、現存の西本陣(三日市尾道屋菅波家=当主菅波信道など)とその分家東本陣(七日市本荘屋=当主菅茶山など 一七六七年、大火で焼失)が務めていた。

 現存の神辺本陣は代々、酒造業を営み、筑前黒田家の本陣役を務めていた。敷地は1,000坪。施設は表門、表土塀番所、内倉、内土塀、延享三年建築の母屋(玄関、敷台、お成りの間、二の間、三の間、札の間、湯殿)から成る。
 黒塗りの土塀の門には、九州福岡藩主黒田家の紋所藤巴の瓦が置かれている。大名宿泊の折には、平常の居宅も加え、部屋数27、畳数200余畳を使用し、大名と付添衆50~70人の収容が可能であった。休泊大名の緊急避難場所として、本陣北側佛見山萬年寺が指定されていた。

 現在、住宅部及び酒造関係施設の一部が消滅している他は、本陣関係施設の大部分は現存している。誇り得る財宝である。
 建造物群に加え、書画骨董など、それに、何よりも、「菅波信道一代記」(菅波信道)―「神辺風土記」(菅波堅次)―郷土史研究論叢(菅波哲郎)と先祖代々子々孫々継承されている歴史、文化、教育面での社会貢献にも満腔の敬意を捧げたい。  (2017.5 上 泰二)
 
 
 茶山ポエムハイク 中条学区編
   
遍照寺 茶山詩碑に学ぶ
   
  4月23日、第33回茶山ポエムハイク(主催 菅茶山記念館)が中条学区で行われ、参加者35人が岩森逸美前中条公民館館長の案内に耳を傾けながら、半日、徒歩で、大坊古墳に始まり、山頂にある茶山ゆかりの黄龍山遍照寺や史跡などを巡りを楽しんだ。

 遍照寺では茶山詩碑三基について学んだ。

黄龍山呈充国   菅茶山(山門前)

 長松大石旧林邱   長松 大石 旧林邱(丘)

 二十餘年感壑舟   二十餘年 壑舟を感ず

 嘆息當時携手者   嘆息す 當時 手を携えし者

 幾人相對説曾遊   幾人か相對して曾遊を説くや

 語註  ・壑舟 穴の開いた舟
     ・曾遊 かっての吟遊 

(大意)背の高い松、大石のある丘の上の古色蒼然とした邸宅 もう二十有余年が過ぎていることに無常を感ずる。
当時、共に詩を吟じ合った*仲間たちのことを思い起こすと溜息がでる。
充国さん、今はもう、あなたと河相子蘭と私が残っているだけですよ。

 安永七年八月、茶山31歳は*篁大道、松井子璐、河相子蘭、桑田元厚と永富充国(長門五島藩儒)と遍照寺に登り大空上人と交遊している。
寛政十年秋、茶山51歳は充国と遍照寺と河相子蘭を訪ね、次の詩を贈っている。

 同充国訪子蘭      菅茶山

 楚雲湘水二十年   楚雲 湘水 二十年

 屈指同遊半九泉   指を屈すれば 同遊 半ば九泉

 旧侶獨存君與我   旧侶獨り存す 君と我と

 尊前道故賀華顛   尊前 故きを道って華顛を賀す

 語註  ・九泉 黄泉国(冥土)
      ・華顛 白髪頭
      ・尊  樽(ここでは酒徳利)

(大意)江湖を渡り歩いて、あれから二十年。指折り数えて見れば、もう半数が泉下の人。
仲間で存命しているのは貴方と私だけ。酒を酌み交わしながら、白髪頭同志、長寿を感謝しよう。

歳杪寄大空師     菅茶山(境内)

 荒歳村居事亦紛   荒歳村居事も亦(みだ)れたり

 隣閭警盗譟宵分   隣閭 盗を警めて宵分に(さわ)がし

 遥知姑射峯頭月   遥かに知る()()峯頭の月

 寺寺経聲咽白雲   寺々の経聲 白雲に(むせ)

 解説    茶山直筆の書軸(遍照寺釋秀傳老師秘蔵)を元に
        刻彫されている。
 語註   ・荒歳 飢饉の年
       ・閭  村里(の入口)
       ・姑射峯 仙人が住むという山。→中条山     

(大意)飢饉の年には村の暮らしも乱れ、隣近所では夜盗を警戒して夜間は物々しい。
遥かに姑射峯の月に照らされ寺々からは白雲に咽ぶような読経の聲が流れている。 

天明五年三月、茶山38歳が賴杏坪、西山拙齋、姫井桃源、末弟耻庵、河相子蘭と松風館(河相君推宅 東中条)に遊び、翌日は共に黄龍山遍照寺(西中条)を訪ねている。
 時恰も天明の一揆の前年、俗世間と隔絶した仙境で読経三昧に過ごす高僧がコントラストに描写されている。

良夜の碑(境内)

月白風清 如此良夜何 晋帥

月白く風清し 此の良夜を如何にせん 菅茶山                (2017.5 上 泰二) 

  茶山詩ゆかりの地in中条etc
   
①明尾山寒水寺(西中条)
     黄葉夕陽村舎詩「上寒水寺路上」(前篇巻一所収)の舞台
   ②象山(金比羅宮)献燈&春風館十勝碑林
     「春風館」跡(西中条山田)
   ③松井子璐を偲ぶ詩碑二首(「次子璐月夜琵琶湖韻」「時子璐叔姪東遊」
     (西中条高居)
                                  
 
 老梅in 茶山山陽餞飲之所    
 歳々年々花同じからず
 
  3月3日、昨春の茶山詩ゆかりの舞台めぐりを思い起こし丁谷梅林を訪ねた。
少し満開の時期を過ぎていたが、茶山山陽餞飲之所近くの老梅も、希夷の詠んだ桃李さながらに,「年々歳々花相似歳々年々人不同」淡い花びらをあしらった楚々とした装いで出迎えてくれた。
 
 「代悲白頭翁」 劉 廷芝(希夷)   
古人無復洛城東 
今人還対落花風 
年々歳々花相似 
歳々年々人不同 
此翁白頭真可憐 
伊昔紅顔美少年 
一朝臥病無相識 
三春行楽在誰辺 
宛転娥眉能幾時 
須臾鶴髪乱如絲 
 古人復た洛城の東に無く
 今人還た対す落花の風
 年々歳々花相似たり
 歳々年々人同じからず
 此の翁白頭真に憐れむべし
 伊れ昔紅顔の美少年
 一朝病に臥して相識無く
 三春の行楽誰か辺にか在る
 宛転たる娥眉能く幾時ぞ
 須臾(すゆ)にして鶴髪乱れて
 絲の如し

 
   幾種類かの「菅茶山略年表」によれば、文政七年(一八二四)菅茶山77歳と賴山陽45歳の「できごと」 欄には次の記事がある。
三月六日、山陽、母梅颸を迎えて大坂に下る。これより、十月まで、母を奉じて大津・宇治・高尾などに遊ぶ。十月七日、母を奉じて出京。
十月十五日、賴山陽母子が京都よりの帰途来訪。廉塾では偶々詩会が催され、道光上人ら九人の客が集まって いた。
十月十七日、朝、山陽母子が辞去した。 この日、「糍糕祭亥市童喧」日であった。
十月二十四日、山陽母子、竹原経由広島着。
十一月六日、山陽、広島発。
十一月三十日、山陽、広島からの帰途、尾道の弟子、橋本元吉(竹下)、宮原節庵らと連れだって来訪, 五日間逗留する。
(往復、茶山と対面したのは、文化十三年、春水の危篤を聞いての帰省の途訪問して以来九年目である。)
十二月五日、山陽、神辺出立、茶山は山陽を丁谷梅林まで見送った。
 この日付(旧暦)は現在の一月初旬から中旬頃と思われる。
二人の唱酬詩、各二首を含む解説は参考文献に詳しい。
                      (2017.4 上 泰二)   
                            
  
 
          
 鞆小六年日東第一形勝物語公演   
 
朝鮮通信使ゆかりの町全国交流大会
   3月12日、潮待ちの港鞆町市鞆公民館で朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流大会があった。韓国並びに日本各地からの参加者約二四〇名を前に、鞆小学校六年生は「日東第一形勝物語」を熱演、日韓両国通信使の関連資料世界遺産登録の実現を祈った。

 江戸時代の外交使節団、朝鮮通信使一行は来日十一回、往復とも鞆に寄港し宿舎の福禅寺から弁天島、仙酔島などの絶景を堪能している。 正徳元年(一七一一)第六代将軍徳川家宣の祝賀に、通信使八人がやって来て定宿の福禅寺に宿泊した。その折、八人が口を揃えて「対馬から江戸までで、此処の景色が最も美麗である」と絶賛し、従事官李邦彦が「日東第一形勝」の墨筆を置き土産に遺した。

文化七年(一八一〇)、阿部正精の命で伊藤良炳が木彫にした。 また、延享五年(一七四八)、第九代将軍徳川家重の祝賀には、通信使一行の正使洪啓禧が客殿からの眺望に感嘆、「対潮楼」と命名、子息洪景海に書に認めさせた。藩主阿部正福がそれを扁額に仕立て、座敷に飾らせた。

次いで、文化九年(一八一二)、菅茶山が正徳度通信使書(全部)の木版摺が可能な木刻を鞆の豪商に提案したが、賛同を得られず、「日東第一形勝」のみ木刻。その文化的価値を諦め切れない茶山は三使書については、親戚の菅良平に依頼。良平は、友人の豪商三島新助(大坂屋上杉平佐衛門)に相談、彼の理解・協力を得て完成した。 新聞に掲載されたのが、上記の記事です。
                         (2017.4 上 泰二)   
 
   
 
                            
講演会  備後国分寺 「好右衛門の周辺のあれこれ」 
       ・・・ 渡辺好右衛門顕彰碑・延宝水害供養塔
          3月15日開催   講師 佐藤一夫氏(元福山城博物館副館長
 
 1 明和百姓一揆  福山藩では明和六年(一七六九)の秋から翌年にかけて、宝暦三年(十七五三)二月に次ぐ二回目の百姓一揆が起こった。これより前、明和二年、三代目藩主阿部正右が老中昇進、明和六年、父正右の急死に伴い、四代目藩主正倫が襲封した。藩主在府に加え、家督相続などによる藩財政上の出費が嵩み、それのつけが国元領民に対する苛斂誅求の賦課に転嫁された。 長雨・日照りで稲・綿花の作付けが不能、大凶作。農民は窮貧に喘ぎ、飢餓人が横行した。
 明和七年(一七七〇)六月、正倫は前年江戸藩邸御勝手御用に登用した叔父安藤主馬を福山へ派遣し、国元藩改革、事態の収拾を期したが、成果が上がらない。無策に等しい治政に遂に窮乏に堪えかねた農民が決起した。 八月中旬、下竹田村で一揆が勃発。芦田・深津・沼隈郡へと拡大。月末に至って鎮圧された。
 要求項目のうち、大割銀、過上米の十五年賦返済は先送り(来年一月以降)。小作料など地主と小作人の貸借は当事者同士で解決 などとし、藩は無傷。
 安永元年(一七七二)十一月、正倫が帰国。 翌安永二年一月、一揆八頭人として、定藤仙助、北川六右衛門を、謀書・謀判の罪で打ち首獄門。更に、二月、定藤仙助家を闕所絶家にしている。

2 渡辺好右衛門  福山領六郡全ての農民たちの信頼を得た指導者の一人が下御領村組頭渡辺好右衛門である。資性剛直、頗る才略有り。里正の苛征への憤り抑えがたく、進んで福山藩に訴え出た。藩が穏便に取りなし、領民の困憊を救った。お上に阿るばかりの者が多いなかで、自らは進んで捕縄を打たれ、粛々として幽界に旅立った。と。 (義挙碑 土肥政長 建立 昭和四年)

3 延寶元年溺死六十三霊二百五十回諱供塔  延寶元年(一六七三)、堂々川氾濫により、犠牲になった六十三霊二百五十回忌法要 (土肥七郎建立 大正十一年五月)  延寶元年(一六七三)、堂々川氾濫により、犠牲になった六十三霊二百五十回忌法要 (土肥七郎建立 大正十一年五月)                              (2017.4 上 泰二) 
 
 
穴の海
 
  3月21日付、「中国新聞」に、「備陽史研究」第25集に会員の世良泰三さんの「穴の海」に関する考察論文が紹介された。世良さんによれば、神辺平野にあった「穴の海」は「芦田川の流路を兼ねた淡水湖」と結論づけている。
 穴の海は日本書紀など古典に依拠した伝説であるが、神辺本陣、菅波信道氏の末裔、菅波堅次氏は「神辺風土記No.1」(1982年)で、「海」は「湖」か「沼」であったとの説を採っている。
 それによると、①現地表レベル(16m)に比して、所謂、縄文海進時点で神辺平野の最高水位が4~3mと推定されることから、それより海抜が高い川南(7~8m)、川北・御領(9~10m)などへの海水の浸入は考えられないこと、②福山湾を除き、芦田川流域には、縄文海進、換言すれば、汽水域を裏づける物証貝塚が皆無であること、③鶴ケ橋近くの小高い山、片山、その山裾地域の風土病、片山病の中間宿主とされるミヤイリガイは淡水域にしか棲息できないこと、④川南の山頂に川石の層の存在が確認されていることなどを論拠としている。これに清水凡平氏も「目から鱗の想い」と同調している。

  参考資料 「神辺風土記No.1」 菅波堅次著  p.p4~12

                      (2017.4 上 泰二)
 
 「別所砂留」見学会
         
  4月1日、別所砂留を守る会(光成良秀会長)が見学会を実施した。好天下、約140名の参加者が蘇った文化遺産を前に岡山大学大学院樋口輝久准教授の話に耳を傾けた。

 別所砂留(芦田町福田)は堂々川砂留(神辺町湯野)・金名砂留(新市町常)と同じように、江戸時代、人々の生命、財産を守るため築造された砂防ダム、福山藩独自の施策で、2009年、その存在がわかり、その後、有志「別所砂留を守る会」(光成良秀会長)により、まちづくり事業の一環として整備が行われるようになった。
5年がかりで、谷筋の草木の伐採や遊歩道づくりで、発見された砂留は大小36基、その努力が実を結び、2015年9月、土木学会「選奨土木遺産」として福山市が初認定した。

 2016年10月9日、神辺文化会館で開催された「全国砂留シンポジューム」で、光成良秀会長は特に「流域の草木一本を伐採したり、土石を除去するにも行政上の厳しい法の壁に阻まれる」現実に直面した労苦を顧みている。その甲斐あって、11月には、土木学会から市民普請大賞グランプリを受賞している。

 2月24日、御野小学校6年生は堂々川ホタル同好会土肥徳之代表を招き総合学習発表会を開いた。
児童は8グループに別れ、堂々川の砂留や彼岸花、古墳についての取り組みを発表した。
なお、堂々川ホタル同好会は 3月19日、「ゴミを拾いながら初春の堂々川の散策」を行った。

                     (2017.4 上 泰二)